徘徊のひと

しっとりとした大気に、排気ガスの匂いが溶けている。
ふらりと立ち寄った書店で久々にコミック平台を眺め、今月の新刊の充実っぷりに慄く。ちはや乙嫁センネン聖おにいさんアポロン百鬼夜行抄、……もう、うちには置き場が無いのに。お金も無いのに。切実な問題である。
膨れ上がる欲望を制し、幾つかは週明けに社割で買う事にして、取り敢えずアポロンとちはやを手に入れた。

店を出て直ぐの道路を、スーツ姿の男性が二人、肩を組み唄いながら楽しげに横切っていった。金曜の夜だもんな。嬉しくなっちゃうよな。ねえ色々あるけど頑張ってるあなた、私が今の会社を辞めるかも知れない件について、どう思います?と聴いたら何て答えるのかなぁなんて不毛な事を思った。

焦点

モト「…あなたはそうかも知れんな」
私「そう、って?」
モト「満足出来ひんてことや。只ついていくだけでは」
会社の廊下の自販機の前で、私は、来客用の珈琲‘ありあり’6つとミルクonly1つを買いながら、同期の彼は明日に迫った異動の最終引き継ぎをも終えて暇を持て余しながら、少しだけ話した。
まさに今の私、その迷いの核に、ぐんとフォーカスを当ててきやがる。やるなぁと思う。

モト「ぼくはこの会社に来たかった訳じゃないんよな。東京に来たかった」
ええ、そうですね。そうですとも。
だからこそ迷う。

&ハッピーターン

新宿のカフェにて、不意打ちで指輪を貰った。私の指には勿体ない、アレックス・モンローの、針金のように華奢なゴールドの蕾の。ほの暗い間接照明の中でもぴかぴかしているから、私の気持ちもつられてぴかぴかした。かつてはベタに指輪など…と思っていた筈なのに嬉くて、そんな自分に多少呆れて、でもやっぱりどうしようもなく嬉しかったからずっと眺めたり触れたりしていた。ちょっと泣いた。

同じ職場でほぼ毎日顔を見られたこれまでと違い、絵に描いたような遠距離恋愛が始まる。何気ない日常を共に味わう幸福を手放す代わりに、また得るものもあるだろう。

5月の雨の匂い、買ったばかりのカップリングベストアルバム、小城君のくれたブールドネージュ、遠い車道に響くエンジンの音、暖かな二の腕に付いた私の鼻水、綺麗なメモ、ハッピーターンの空袋、今お互いが感じていること。どうか忘れずにいて。
そして、どうか怒らないで。貴方のハッピーターンを全部食べてしまったこと。

…が好き

文面を目にした途端、心が締め付けられる。なんて痛い。なんて甘い。小説のようにはいかない結末をどこかで予感しているくせに、それでも最後の望みを信じるふりをしている。信じたいと思っている。互いに明るい方だけ見ている。そんな人間関係もある。

近況

仕事が変わり、日々それなりに充実している。自分の存在価値も見出せず茫洋と過ごしていた一時期に較べたら、随分と健全になったものだ。
時折は、山と積まれた為すべきことに腰砕けになりそうになるけれど、それもまた一興と開き直れる心の余裕が出てきた。
冷静に丁寧に自らの進退を考えるに相応しい時機だと思う。

カレー

高田馬場パキスタンカレーの店で乾杯をした。
その美味しさにすっかりはまってしまったダールフライと、ほうれん草のやつ。それからお店のおじちゃん(パキスタン出身?)イチ押しの、水分飛ばして野菜を煮込んだやつ。全部カレー。…なんか今、自らの説明力不足にがっかり……。

追加で頼んだチーズナンを半分食べた頃には、実際お腹がはちきれそうだったのだが、食い意地が張っている2人はまだ食べる。食べる。もりもり食べる。
ピザみたく6等分にカットされた厚手のナンそれぞれにたっぷりのチーズが挟み込まれていて、手でちぎると塩気のあるチーズがにょーーんと伸びて、これがまた堪らなく旨い。生地があつあつで、カレーも辛いものだから「独りサウナ」状態なのだが、でも、旨い。

90度の姿勢が100度になり、120度になり、ああもう何処でもいいから横になりたい…と心から願った所で、10ヶ月分の幸福を感じた。

soup

池袋のスープストックに立ち寄れば案の定悩める人。
オマール海老のビスクか?オニオンクリームポタージュか?はたまた『食堂かたつむり』のジュテームスープか?決断するって、どうしたって真剣にならざるを得ない。

と言いつつ、割とあっさりジュテームに決めた。ジュ・テーム。愛してるだって。我ながら、何という…。

さて、南瓜と、さつまいも、りんご。玉ねぎ。
クレソン。百合根。とろけるバター。
お疲れ気味の胃が優しい味わいを望んでいたので嬉しい。裏ごしされた根菜の、少しざらつく後味を、玄米ご飯に絡めて噛みしめ喉を滑らせ水で潤す。このひと口にすらけだるさを感じる一方で、このひと口に元気を貰う。
ふんわりと自然の甘味、くちびるにほんのり爽やかなセロリの風味。濃厚な黄色にスプーンを浸して、芋の薫りを愉しんで、よく噛み、丁寧に食べる。

店内を照らす橙の光のもと、風の様にびゅうびゅう流れていた時間が徐々に滞り、思考の澱も底へと沈み、今夜もまた、すきとおった上澄みだけが残った。様々な想いが交錯して、収拾をつけられないまま馬鹿だな、と思う。ばかだな、私。
寝てしまいそうである。