微温湯の切なさ

地元に帰って考えるのはここ数年いつも似たようなことで、その時確かにこの感情を忘れてはならないと心に決めるのに、それでも下宿に戻るとそういうことの一切合財を意識的にしろ無意識的にしろすぐに頭の片隅に追いやって課題とか教習とか恋人の事ばかり想っているなんてもの凄くおろかだ。
あそこで自分にとって限界に近いほど胃の痛くなる出来事があったのは事実だけれど、だからって今の私に、それを「考えない」理由を自己防衛のひと言で片付けて他人に甘える権利なんてある?
どんなに守られてるかとか、どんなに甘えているかとか、どんなに無力であるかとか…そういう全ての物事を、まず私自身が、口先だけで誤魔化して生きていないと言えるだろうか。ちっさなプライドだけは後生大事に抱え込んだりして。そんな風であるのに、一人自己満足の哀しみに浸る権利なんて、ないよ。

そうやって頭では私なりの答えを必死に唱えてはいても、迎え入れてくれたKの傍は温かくてやっぱりどうしたって離れたくないと思ってしまった。冷えて凝った感情の残滓と一日働いたマスカラが溶け出して混ざり合ってどろどろした汚い涙になっても、私は悴んだ指先に力を込めるだけだった。ここ数日心に溜まったものを上手く引き出すことは叶わず、それはまるでトトロのメイちゃんの様にぐっと口を引き結んだまま胸に顔を押し当てて、あーあ、このままじゃシャツに黒いのがついちゃうなどと考えながらも、ひたすらに雫を滲ませていた。
なんだかもうよくわからない。
結局、私は色んな人に助けてもらってやっと生きているということ。それを忘れる訳にはいかないということ。いい加減に交替!と子供みたいに甘えてくる人の頭を笑いながらよしよしする、その時間に随分救われているということ。