解釈共同体

後輩に彼氏が出来たらしい。
‘後輩’といっても彼女は今年入学したばかりの1回生なので、同じサークルに所属しているとは言え、一応形式的に引退している4回生の私との接点は皆無に等しい。新歓の花見で少し言葉を交わした位か?
それが、数日前に彼女からミクシィの「マイミク申請」メールが届き、私がそれを承認した事で私たちは所謂「マイミク」の関係になった。

文字ばかりで殆ど更新されない(身近な友人達が見ると解っている「日記」に何をどのように綴るべきか迷う内に、毎回書くのが億劫になってしまう)私の日記と対照的に、彼女は毎日こまめにその日あった出来事をアップしている。
ちゃんと絵文字も顔文字も使って画面はきらっきらしているし、「ぁ」とか「ぉ」みたいに母音はちっちゃく可愛いし(私、使い方が解らないのです)、改行も行間も惜しみなく使っていて、それに応じたコメントが沢山ついている。

そういう「最近の」表記法で表された彼女の「日記」を眺めてふむふむと思っている私だけど、時折彼女の側の視線が気になる。文字ばかりの、テンションの低い、漢字にまみれたよく知らない上回生の文章、彼女の目にはどう映っているのかしらと。


表記法に関して云えば、その良し悪しを論じるのはナンセンスだと思っている。
が、やっぱり私にとって「そぉぢゃナィょん(はぁと)」って書き方が、なにかこそばゆい居心地の悪さを感じさせるのと同様に、彼女は私の書く文章を「カタくてつまらないわね」と思っているかも知れない。そもそも読む気にもなれなくて読み飛ばしているかも。そこにはあくまで一方通行の情報が漂うだけ。


たかが3、4年の差で、「最も相手に伝わる」表現方法が大きく異なるというのは、ちょっと不便だなぁ(同世代内でもそれはあるけれど)と、そう感じる出来事がここ暫く重なった。
表現方法が異なるということは、少なからず、物事に対する解釈も異なるということだと思うので、例えば「顔も覚えてない人に自分の生の日常を知られるのはヘンじゃないのか」とか「足跡をつけたのにコメントを書かないなんて酷いだろう」等という個々の感覚のズレというのも、無理の無いことなのかも知れない。
…ああ、何が言いたいのだ私。はじめに書きたかったテーマから、どんどん脱線している。


そう、後輩に彼氏が出来たらしい。
私はそれを彼女の日記で読んで、相手の特徴や2人の熱愛ぷりまでもを知った。けれど、彼女がどんな顔で、どんな話し方をしていたのか、どうしても思い出せないのだ。
顔も知らない誰かの日記を読むことは、私も沢山していて、尚且つそれを楽しんでいる。でも、ミクシィで読むそれはあまりに生生しく、それなのに現実の中身(関係)が伴わないこのアンバランスさ…

微笑ましいデート話に心洗われつつも、こういう話は飲み会やカフェでのおしゃべりで知りたかったなと、本当は少し、思っている。